■キリスト教では特に顕著なのだが、
人間がひどい罪を犯したときに陥る。
■人間は善良な生き物のはずなので、
人間がそんなひどいことをするはずがない。
という思考に至り。
■ならば誰がそうしたのか?と問うと
「それは悪魔の仕業なのだ」
と人の所業を一旦分離して、
心の平穏を保つ、というシステム。
■もちろん本当は人間がひどいことをするのだが。
それでは本人の心が壊れてしまったり
周囲が必要以上に罰を与えてしまったりで。
再起の可能性を摘んでしまう。
■なので一旦悪魔のせいにする。
日本だとこれが鬼になる。
別のモノに責任を転嫁させるのである。
■それは更生のためには大事なことだが
あまりにそれに寄っ掛かりすぎると
人間がひどいことをする。
人間こそが鬼である。
といことを忘れてしまう。
■ついには悪いことをした人を
「あいつは人間ではない、鬼なのだ」
と考えタガの外れた暴力を振るってしまう。
だって、人間ではないのだから。
鬼は殺しても構わないのだ、と。
恐ろしいことです。
■そんな人間こそが悪魔であり鬼なのです。
というかそれがあるのを認めた上で
自身の心をコントロールするのが
文明的な人間なのであります。
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— 内海まりお 【南3ヤ-22a】2日目8/10土 (@mariouji) April 28, 2019
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